あきんど、空を飛ぶ。
タマシイと肉体が乖離しやすい人と、そうでない人。
人には2種類いる。
タマシイと肉体は乖離する。
元々、別のものなのだと思う。
ただし、全く別のもの、ではないが。
タマシイは肉体という不自由にいる事で、多くの学びを得る。
不自由さを感じる事でしか、学べないものがあるのだと思う。
肉体を持ち、自分の肉体と向き合い、酷使し、時には大切にし、何かを掴む。
体験、体で験す(ためす)ことからしか掴めないものが、ある。
人はこの不自由さの中に、自由を見つける。
有限の中の無限。
おそらく、不自由を通してしか掴めない、自由、がある。
日本の「道」はこうして、作法や演武といった形式の中で無限の宇宙を表現するに至ったのだと思う。
が、時に、この肉体の不自由が、心まで不自由にしてしまうことがある。
縛られる必要はまるでないところで、囚われ、心が身動き取れなくなってしまうことがある。
よくよく見つめてみると、大抵縛り付けているのは自分自身の心だ。
自由なはずの心は気がつけば自分自身が縛り、不自由になっている。
常識だったり、世間体だったり、義務感だったり。
みんな本当はどうすれば自分の心が解放され、自由になるかを知っている。
これは非常識になれ、とか、義務を果たさなくてもいい、という意味ではない。
それを自分が踏み出さない言い訳に使うな、という意味。
タマシイはもっと自由になれる。
人はみんな、空を飛べる。