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ナニワあきんど1年生。

立派なナニワあきんどへのへぼへぼ道。

汝の名は、ひでさん。おかんのおかんのおかんのおかん話。

当たり前の話なんだけど、今は過去という歴史の上になりたっているんだな、と実感する話を聞いた。

おかんのおかんのおかんのおかん話を聞いた。ヒデさん。 ヒデさん、満州終戦を迎え、愛媛、今治へ帰る。 100歳まで生きたそうな。

そんな彼女、元は島根の生まれで、15か16で奉公へ出た。 出た先は山口県下関市の写真やさん。

その写真やさん、そこいらではとても大きかった。 ある時、撮影がさる料亭で行われる。

時は1895年、4月17日。

その時、歴史が動いた!

世にいう、日清講和条約(通称、馬関条約のちの下関条約)締結、である。

そう、その料亭とは、春帆楼(しゅんぱんろう)。

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日清講和条約(別名:下関条約1895年)の時の撮影を担当したそうな。

下関の春帆楼というふぐ料理やさんで伊藤博文と清の李 鴻章が調印した、その写真撮影をその写真やさんが担当。

歴史はどこか遠い教科書の中の世界ではなく、自分のいる世界はその歴史の上に成り立っている。 そう実感する話。

ヒデさん、その後嫁入り。 写真やさんが、嫁入り道具替わりにと、額に入ったその調印の際のりっぱな写真をくれたとのこと(この当時、写真は貴重だったんだろうね)。 ばーちゃん(ヒデさんにとっては孫)はその写真を見て育ったそうな。

で、その写真は?と聞いたら、「捨てた」。 捨てた!!?? 驚きのこの事実。どこに一番驚いていいのか・・・・。

まあおそらく戦中戦後のどさくさで捨てざるをえなかったんだろうけど。

伊藤博文も日清講和条約も歴史の符号でしかなかったが、 歴史が自分につながる過去として認識するような話だった。

ちなみにヒデさんが嫁入りした先のご主人は四国で会社を興し、結構成功したが、何かで失敗。 無一文になり、起死回生に満州に渡り今度は旅館経営で成功したらしい。 ばーちゃんはいいとこのお嬢さんとして乳母日傘で育ったそうな。 女学校時代に修学旅行で内地一周、って豪気だ。

あまりのお嬢さんっぷりに終戦後、何もなくなった時に、洗濯板の使い方すら知らなかったと聞いた。 女学校で花嫁修業に習わなかったのかと聞いたら、なんとなんと、女学校には洗濯機があったとのこと。

お宅のお孫さん(あきんど)は風呂もマキで焚くし、石垣もよじ登るし、家の塀や屋根を歩く(二階の窓から降りて)野生児でしたよー。 うちには栗の木とどんぐりの木があり、栗が食べれるんだからどんぐりも食べれるだろうと、庭のどんぐりを石ですりつぶして食べたり・・←美味しくない。でもお腹壊れない。

乳母日傘(おんばひがさ と読む)って何ですか、って世界で生きておりますことよ。


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