ナニワあきんど1年生。

立派なナニワあきんどへのへぼへぼ道。

あきんど、宗教を考える。

正月には神社へ、実家に帰れば仏様を拝み、クリスマスにはケーキを食べる、宗教観があるとは到底言えない日本人。

あきんどの出身校はプロテスタント

神父と牧師の違いについては説明できる。 けど、根本的に何が違うのか、というと怪しい。

ってか、日本人で、浄土宗と浄土真宗がなぜ分派したのか、臨済宗曹洞宗がどう違うのか、明確に説明できる人が何人いるだろうか。

でもあきんどは、このゆるさが、いいなあ、と思う。

違いを明確にして、どちらが優れているかなど優劣をつけることに何も意味はない。 高い山が好きな人もいれば、低い丘が好きな人もいる。深い海が好きな人もいれば、浅い海が好きな人もいる。 何が好きでも、いいじゃん。 相手が何が好きでも、いいじゃん。

あきんどの学生当時、礼拝に出ることに何の意味も見出していなかったけど、最近よく思い出す。

「光の子として歩みなさい」 という言葉があって、それをずっと「王道を歩め」という意味だと思い込んでいた。 がそうではないと知った。

「あなた方は以前暗闇でした。しかし今は主と結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい」

という言葉を聞いて当時何の感慨もなかった。

というか、若干、嫌悪感があった。

何その、「主」がいたから救われた、的な発想。と否定的だった。

でもこれ 「現状に不満があって、暗闇の中にいる気がしたら、自分が暗闇に覆われているのではない、自分自身が暗闇であり、暗闇を作り出しているのだ」 と説かれると途端に意味が明確になる。

暗い理由を人のせいにするな。 その闇の責任は自分にあると自覚せよ。 自身の闇を見つめ、光に晒しさえすれば光の子となることができる。 闇に囚われないように、光の道を歩め。

という意味なのね。

なかなか深い教えだな。 キリスト教に傾倒する気はないが、良い言葉だと思う。 人のせいにせずに自分の闇を自分で見つけ、自律できる人間でありたい。

年を取るって、こういうことを毛嫌いせずに受け止められるようになるので、とてもいい。 人は年とともに自由になるんだな、やっぱり。