ナニワあきんど1年生。

立派なナニワあきんどへのへぼへぼ道。

ねーちゃんは、がんサバイバー。コトバは時々棘になる。

これは2014年の新聞記事。

 

とても共感した。

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あきんどのずっと、一番嫌いな言葉は「大丈夫?」だった。
大丈夫じゃなさそうだからかけるであろう「大丈夫?」という言葉。

ギリギリのところで踏ん張っている心を折るような気がして、なんて残酷な言葉なんだろうと思っていた。


同じ理由で「頑張って」。


気軽なシュチュエーションなら、いい。

でも、これ以上頑張れないくらい頑張っている人に「頑張って」という他人事な言葉をかけることはできない。


絆も薄っぺらい言葉になってしまった。

 

言葉とは「つむぐ」もの。

 

にもかかわらず、文頭「記事を書くのは見捨てる行為」は真実だ。

何かを際立たせる為には、何かを切り捨てなければならない。それははたして簡単に切り捨ててよいものだったのだろうか。
寄せられた言葉が胸を打つ。

園子温(映画監督)
「震災後の表現は、より誠実でなければいけない。どんなに稚拙で未熟な表現になろうと一歩踏み出すこと。それが誠実だ」

谷川俊太郎(詩人)
「ただ言わないこと、書かないこと、黙っていることまで<言葉>というコトバが含意しているとすれば、私の内部の沈黙は以前に比べて深まったような気がしています」

長田弘(詩人)
「詩にできるのは半分だけ。書くことは、言葉にできない残りの半分を大事にすることでもあるんです」

 

ねーちゃんはがんサバイバー。

抗がん剤治療の最中は本当に苦しそうで、

気軽く「大丈夫?」や「頑張れ」とは言えなかった。

 

ねーちゃんのがんサバイブに動転したおかんはご近所さん何人もにねーちゃんががんである事を打ち明け、あっという間にねーちゃんはご近所さんから「大丈夫?」と声をかけられるようになった。

当たり前だが、ねーちゃん、おかんに激怒。

 

が、おかんの動揺も分かるだけに、どうにも言いようがなかった。

生活しながら(周りとの関係性を維持しながら)サバイブする、というのはなかなか胆力がいる、と思う。

 

気軽くいう

「大丈夫?」

「頑張れ」

は時々、誰かに致命傷を負わせる刃になる。

コトバは時々、棘になる。

 


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